地曳秀峰老師インタビュー 柔拳への道

第9回 王樹金老師との出会い

地曳秀峰は合気武道修行に明け暮れていたが、新聞紙上で中国拳法の大家が招聘され来日することを知った。
これが王樹金老師との出会いの切っ掛けになっていく。

中国拳法との出会い

-最初に中国拳法に興味をもたれたのは?

地曳 二十代半ばだったでしょうか、神田の古本屋の店頭でした。米軍基地で通訳を務めておりましたから、職業柄英語の本が欲しくて行ったんでしょう。
英文雑誌「ライフ」に中国のミリタリーアドバイザー(軍事顧問)の訓練風景の写真がありまして、不思議な形の拳法を練習しているのを見たのです。戦時中にアメリカで発行されたものだったと思います。進駐軍(戦後暫く日本は米進駐軍統制下にあった)の誰かが置いていったか何かしたのでしょう。今になって買っておけば良かったと思いますが大変印象的な写真でした。

- 空手修行時代ですか?

地曳 そうです。空手が合理的で最高の武道だと思っていた時代です。大東流合気武道を始めたのが二十七歳頃ですが、その前のことです。体の動きが柔らかくて、どんなことでもできると自信に満ちていました。写真はおそらく太極拳だったと思いますが、空手をやるものにとっては太極拳の型は何をやっているか見当のつかない形なのです。
坐盤勢(ざばんせい)や単鞭(たんべん)などは、どう使うのか想像もつきません。最初に見たときは不思議でおかしな格好だと思ったんですが、このときの印象に導かれるようにして老師にお会いしたと今にして思います。

武道仲間との語らい

-王樹金老師の新聞記事をご覧になったのは?

地曳 三十歳を少し過ぎた頃です。何回も続けて報道があり、中国拳法の大家が要請を受けて招聘されたことを知りました。
先の雑誌の印象が強く残っていましたから、是非お会いしたいと思いました。

-老師の所には武道仲間と語らってお出かけになったと伺っておりますが?

地曳 相手はなにしろ中華民国政府が特別に派遣した武道家でしょ、それに外国人ですから言葉の不安もあります。気後れして一人でなんか行けません(笑)。
あの頃は、合気の練習を終えると仲間で飲みにいき武道談義に花が咲くのが常でして、みんなに会いに行かないかと私から誘ったわけです。横田和男編集長もその仲間でした。私は空手もやっており中国拳法の写真を見ていますから熱心に誘ったのですが、彼らは居合などの古武道出身ですので半信半疑で「そんなにいうのなら、ついていってやろうか。良ければやってもいいよ」という感じだったでしょうね(笑)。彼らの興味は刀や杖を持ったりする方にあるわけで、拳法には私ほど興味はなかったかも知れませんね。

-先生は古武道はなさらなかったのですか?

地曳 あの時は、細野恒次郎先生の所で大東流の大刀と小刀、それに手裏剣をやっておりました。でも、私は基本的にものを持つことに興味がない。むしろ、ものを取り上げることのほうが興味がある。武器の使い方がわかれば、相手の攻撃がわかるので練習していたという感じでしょうか。だから、お互いに武道に対する姿勢が違っていたといえるでしょうね。

王樹金老師との対面

-王樹金老師を訪ねられたのは?

地曳 新聞に出ていた老師の寄宿先である清水隆次先生(神道夢想流枝道師範)のお宅を連れだって訪ねることになりました。いつ頃のことだったか記憶が定かではないのですが、Yシャツの袖をまくっていたような気がしますので初夏の頃ではなかったでしょうか?そのときは、老師はご不在で清水先生が応対に出られました。お話を伺って、また日を改めてということになりましてね、それで翌週の日曜日にまたお訪ねしたと思います。週日は木更津の米軍基地におりましたので、日曜日でなければ行けませんでしたので。

-老師の印象は?

地曳 想像していたイメージと大分違いました(笑)。拳法家というと空手家やボクサーのように引き締まった精悍さを思い描いていたのです。出ていらした老師はふっくらした布袋様といった感じで、ちょっと意外だったですね(笑)。しかし、これから何が起きるのかが想像がつかない、言葉も通じない。とにかく木更津から四時間かけてこちらに伺ったことを告げ、無我夢中で入門をお願いしました。その頃は交通の便が悪く、東京に出てくるのに大変時間がかかったのです。

-すぐ老師の許可が下りたのですね。

地曳 ええ、朝六時に明治神宮で練習をしているのでそちらに来るようにいわれました。朝の練習には佐藤金兵衛氏などが出られていたようです。でも、木更津から朝の練習には通えません。日曜日の午前中に細野道場で師範代を務めておりましたので、できれば、その後にできないかとお願いすると、それでは特別に頭山道場でということになりました。その上、清水先生もご都合を付けてくださり杖も習えることになったのです。
王樹金老師が初参加した全日本杖道連盟主催各流演武大会プログラム

頭山道場にて

地曳 今にして思うと、頭山道場の練習に行けたことが老師との縁を深める切っ掛けになったように思います。幸運でした。

-道場ではどんな練習を?

地曳 老師の練習は、最初、とにかくチャンロン(注)ばかりです(笑)。他の連中は、拳法といえばこう打ってきたらこう返すといった練習を想像していたのでずいぶんと不満だったようですが・・・ (笑)。
私は拳法の基礎訓練であろうと思いながらも何がなんだか分からない状態ですから、老師についてただチヤンロンを夢中でするだけでした。その後、清水先生の神道夢想流杖道のご指南をうけました。

-地曳秀峰先生は頭山道場に通われてから、武道の視野が広がったと伺っておりますが?

地曳 清水先先の所には古武道の方々が集まりますから、知識が広がりました。それに杖は剣を相手に使いますから、剣がわからないと使えないので打太刀の剣もやりました。
練習の後に仲間と飲みに行くのが楽しみでね(笑)、今の渋谷の高速道路の辺りに川があったのですが、そこにハモニカ横丁がありましてトタン屋根の焼鳥屋があったりしてね、常連でしたよ(笑)。
仲間のいろんな話を聞いて、今度はこれをやってもみたいと興味が広がるわけです。しかし、あくまでも重心は柔拳にありましたから、柔拳中心の受け止め方をしていました。主食が柔拳でいろいろとおかずが増えていった、といった感じでしょうか・・・ (笑)。

-王樹金老師の練習はどのように進んだのですか?

地曳 王樹金老師は日本に滞在されても1カ月かニカ月たらずでお帰りになってしまうのです。おそらく、ビザか何かの関係だと思うのですが・・・。
その後、次にいつ来られるのか分からない、だから清水先生の所に行けば老師の動向が知れるので通ったという部分もあります。
しかし、長く滞在できないから、一度にたくさん教えてくださったという幸運な面もありました。太極拳もやったし、形意拳も教えてくださった。しかし、まだまだその意味も訓練内容の凄さもわかりませんでした。空手をやっていたので、形意拳の型などは苦もなくできるわけです。でも、形だけで気で打つということは理解できなかった。合気をやっていて「気」というものを比較的わかっていたとはいえ、気そのものはまだ育っていなかったでしょう。本当に気を育てるには時間がかかりますからね(笑)。
その頃は、空手の癖でカー杯の形意拳をやっていたのですよ (笑)。

頭山道場に通い、老師との拳法の練習と清水師の指南を受け始めた地曳秀峰の武道は、新たなドラマに向かって進んでいく。(つづく)

注・チャンロン
気功法である姑椿、ここでは大成気功のこと。「姑椿」は北京語でヂャンチュアンと発音されるが、天津生まれの王樹金老師はチャンロンと発音された。それゆえ、大成気功をそのままチャンロンと地曳秀峰会長は呼ぱれている。
老師は一定の功夫(武術の基礎となる気)が、育っていないものに太極拳や形意拳の套路(型)を教えても意味がないと、初歩段階では功夫を育てるために姑椿を重視されていた。

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