地曳秀峰老師インタビュー第4回 空手事始(ことはじめ)
地曳秀峰老師インタビュー 柔拳への道

第4回 空 手 事 始(ことはじめ)

地曳秀峰の本格的な武術修業は17歳の時に始まる。海軍に入隊し、歴史的玉砕地サイパンに送り出されるはずがタッチの差で生きのびることになる。その後、海軍航空本部に所属し軍需省に配属になる。空手との出逢いはこの時期である。

空手事始

―空手を始められたのはいつ頃ですか?

地曳 終戦の前の年でしたね。家族は木更津へ疎開していましたが、私はその頃軍需省に勤めていましたのでその寮に入りました。食料も極端に欠乏し配給となり、その頃は長い間栄養失調となって苦しみました。

―それでも武道をやりたいと思われたのですか?

地曳 やっぱり好きだったのでしょうね(笑)。帰り道に近くの赤坂辺りでたまたま剣道場に行き当りましてね、「唐手」(空手のこと)と看板が出ていました。

― 何故、空手をやろうと思われたのですか?

地曳 当時は、柔道全盛期でして小説「姿三四郎」がベストセラーだった。この小説の中で三四郎のカタキ役で唐手の三兄弟が登場する。この物語は他流派の武道を柔道がどんどん叩き負かしてその強さを証明して行く話だから、空手は悪者として描かれていました。 でも、柔道は相手を掴まなければ技はかけられないが、空手は離れていても戦える、突き蹴りでね。だから、私は空手の方が合理的かつ能率的だと思いました。やはり護身を求めていましたからね。

― それでは、空手はその頃人気がなかったのですね。

地曳 一般に知られていなかった。字も、当時は「唐手」と書かれており、「空手」というのは、船越義珍先生(松濤館空手創始者。 1870~1957 沖縄武術「唐手術」を本土に紹介。教員を退職後、東京に渡り、空手の普及に尽力された。)が武器を使わず空っぽの手で戦う武道というので名付けられたものです。

― その時、師事されたのは?

地曳 朝鮮の方だったのですが、名前は失念しました。剛柔流空手の開祖である宮城順の三高弟の一人だと聞いています。習いに来ていたのはほんの数人位でしたが、その中にね、「木村の前に木村なし、木村の後に木村なし」といわれた天才柔道家、木村政彦(1917~1993)が来ていまして、一緒に汗を流しました。

―どんなトレーニングをなさっていたのですか?

地曳 縄飛びとかウェイト・トレーニングとか巻き藁を毎日朝晩突いたり蹴ったり。鉄の鎖をヌンチャクのように振り回したり…。しかし、その道場も東京大空襲で焼けてしまいましてね。戦後探しに行きましたが、先生とは会えずに終わりました。

―戦後はどうなさったのですか

地曳 当時、写真新聞で「サン」というのがありましてね、その中に空手の記事が載っていた。それで早速その編集長を訪ねた。編集長は広西さんという方を紹介して下さったが、この人も出版の仕事で忙しいということで、船越先生の弟子である森田保道という方を紹介して頂き警視庁の道場で教えてもらうことになりました。あの頃は、GHQ(日本が占領下にあった時の連合軍総司令部)の指令で、道場を建てても運営してもいけなかった。ただ警察のみが警官に必要だということで武道を許されたという時代です。森田先生が警視庁に伝手を持ってらしたので特別に道場が使えたのです。

体を武器に変える

― しばしば道場に通われたのですか?

地曳 木更津に住んでましたから東京に出るのは当時大変でした。汽車を乗り継いで行くのですが、本数も少ないので4時間位かかる。それに客車なんてない、貨車に乗って行くんですよ。

―貨車ですか?

地曳 座席はないから、皆んなしゃがんだり胡座をかいたりしてね(笑)。森田先生にお会いできる時だけ道場に通ってあとは1人で毎日稽古しました。

―1人で鍛錬なさったのですか?

地曳 そう。自分で鍛錬して、体を武器にしなきゃね。頭に麦藁帽子をかぶって、その縁を蹴ったりしてね(笑)。それに正拳だけでなく、指先で突けると有利だから指先も鍛える。

―あの砂を突く鍛錬ですか?

地曳 そうそう、砂を突く。その次は小豆を突く、次は石油罐に大豆を入れて突く、その次は空豆を突くのですよ。

― キャー恐ろしい!

地曳 そうすると爪が三分の一から半分位なくなってしまう。指先が足の裏の皮のように黄色く硬くなってタコのようになる。それで今度は巻き藁を指先で突くんです。そして身体を武器に変える。船越先生など私がお会いした頃は70才を過ぎてらしたけれども肘の関節がニワトリの足のように骨が尖って出ていましたね。

―やはり筋肉で体を硬くするのですか?

地曳 えぇ。身体はかなり筋ばっていましたが、若いのに体調はとても悪かったですね。練習が終わるととても疲れて、人相もかなり悪かったように思いますよ(笑)。

米軍人に空手指南

― 地曳名誉会長は通訳をしてらしたと伺っていますが……。

地曳 終戦になって日本は連合軍に占領された。米軍人が彼等の文化を持って街にあふれたわけです。私は、これから何をやったら国のためになるかと考えました。それでは英語をマスターして社会のために尽くそうと思い立ちました。ところが、現実に通訳が不足していたので、即席にやって早く就職しなければいけない。猛勉強しましたね。

―お勤めはどちらに?

地曳 木更津の進駐軍基地でした。すると、アメリカ人には空手が珍しくて興味津々なんですね、それで空手をやって見せたり、頼まれて教えたりもしました。船越先生にも木更津まで来ていただき、演武をしていただいたこともありました。

我が空手に弱点あり

― 通訳をなさっていらした時は、空手について自信満々だった時代だったのですね。

地曳 まあ、腕には自信はあったのですが、思わぬ事件が起こりましてね。今思うと、あれが一つの転機でしたね。

― 何が起こったのですか

地曳 私の通訳仲間に、一人酒乱の者が居ましてね、普段はいい人なんですが、酒を飲むとあばれ出す(笑)。ある日、手のつけられないぐらいあばれ出し仲間の一人が、「地曳さん、空手やってるんだから、彼をどうにかしてくれ」と駆けこんできた。行ってみると、その酒乱の友人が大あばれしている、それで私はとにかくしがみついた。でも、彼は身の丈六尺余りという大男でね、私は小さいので振回されてひっくり返されてしまう。友人だから突いたり蹴ったりなどできない。だからもう必死でしがみつくしかないですよ。そのうち彼も疲れて眠ったので、事は治まりましたが……。

― 空手に押え技は無いんですか?

地曳 突き蹴りが主ですからね。何か有効な押え技を身につけなければと思いましてね。それがきっかけになって探し始めましたが、武道関係雑誌など無い時代でしたから、どうやって探したらよいかわからなかったですね。

― それは空手を始められて、どのくらいの時期だったでしょう?

地曳 始めてから十年位の事だったでしょうかねえ……。

地曳秀峰の武術修業は新たな局面を迎え、押え技という課題をかかえてさらに続いて行く。

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