地曳秀峰老師インタビュー 柔拳への道

第3回 生 命 拾 い

太平洋戦争は後半に向かうと日本は物資不足の中で生活を余儀なくされた。大本営発表の広報は連戦連勝を報道するが、史実が明かすごとく敗戦へとひた走ることになるのである。秀峰(地曳秀峰会長の本名、武峰は号)は海軍に出征し、この時代に翻弄される

生命拾い

―その頃、南方戦線なんか悲惨だったそうですね。

地曳秀峰老師地曳 ええ、そうですね。実は、私も横須賀の海軍基地から、サイパンに転属になることになったんですよ。

― サイパンというと、あの有名な玉砕地ですね!

地曳 そうです。各地の海軍基地で何百人かの部隊を編成し、まず横須賀海軍基地に派遣する。そこで訓練してから、次々とサイパンに送り出していたわけです。ところが、私の前の部隊が引き返して来た。というのはね、米軍の潜水艦が島の周囲を固めているので入れなかったんです。その前の部隊は行きついたが、その次との間に潜水艦が封鎖線を作ってしまった。だから、私たちは予定を変更せざるを得ない。それで行かないことになりました。

― 行かなくて良かったですね。

地曳 行っていたら、全員玉砕でしたから、皆さんともお会いできませんでしたね(笑)。(包囲された日本軍、サイパン島民は全員死を選んだのである)

― 東京大空襲の最中(さなか)で先生は、東京大空襲の時は東京にいらしたのですか?

地曳 おりました。家族は木更津に疎開しましたが、私は勤めがあったので下谷に残りました。軍需省に配属され終戦までそこに居ました。軍需物資を調達する機関で、私は魚雷の管理をしていました。物資不足で栄養失調でしたね。そのうちに空襲が始まったのです。

― 多くの方が亡くなったのですね。

地曳 そうですね。私はその時、軍の仕事で秘密書類を郊外の大学に疎開させる仕事をしていまして、当直の時に空襲を受けました。寝ようとしたら空襲警報です。退避して空を見ると、B29が飛んで来て鳥の糞みたいなものをポンと出した。(笑)そしたら瞬間火の海です。焼夷弾が何十個も入って一つになっているから、一辺に広がるんですね。防空壕から飛び出して「火たたき」で消すのですが。

― 何ですか、「火たたき」って。

地曳 竹の棒の先に荒縄を何本か結び付け、それを水で濡らしてたたき消すのです。でも、油と生ゴムと硫黄が火薬に混じった油脂爆弾ですから、火たたきでたたくとそれに火がつく、それで他をたたくんだから、そこが燃え始める。15分で校舎は全焼してしまいましたね。

空中戦エピソード

地曳 房総沖や伊豆沖に米艦隊が来て戦闘機が来るようになり、昼間でも空襲されるようになった。ずい分空中戦を見ましたよ。ある時B29に日本の戦闘機が体当たりしましたが、B29はドーンと下がったように見えたがそのまま飛び去った。でも、やはり房総沖に落ちたそうです。

―これには後日談がある。

終戦後、私は米軍基地で通訳として勤務しましたが、そこの指令官だったのが、なんとそのB29のパイロットだった。その上、当時救助された様子が映画になって残っている。救助の潜水艦にカメラマンが同行していたのですね。この人があの操縦士だったのかと驚くと同時に日本が必死の時にそんな余裕があったことに差を見せつけられた思いがしましたね。

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