地曳秀峰老師インタビュー第8回 吉田幸太郎先生との出会い
地曳秀峰老師インタビュー 柔拳への道

第8回 吉田幸太郎先生との出会い

-吉田幸太郎先生は、細野恒次郎先生のご紹介で面識を得たと伺いましたが、その経緯は?

地曳 当時、私が細野先生の師範代を務めておりましたので、吉田先生に紹介されたのだと思います。最初は、特に紹介していただく理由はなかったのですが、細野先生が亡くなられて後、面識を作っていただいたことが非常に役立ちました。

-吉田先生のお住まいは?

地曳 茨城県の日立市の在でした。いつも横田先生(『柔拳』編集長)と一緒にお訪ねしたのですが、私は木更津におりましたでしょ、伺うのは大変でした。一旦、東京に出て秋葉原で乗り換えて、それから日立に向かい、日立に着いたらまた、電車を乗り継いでといったいった具合でした。当時を思うとよくそんな情熱があったなあとつくづく思います。(笑)まあ、そのあと、いい技が習えると聞けば、台湾でも香港でも行くことになりましたがね…(笑)

-どんな方ですか?

地曳老師地曳 北海道新聞編集長もなさったインテリですが、古武士といった風貌の方でした。その時は八十前後で半身不随でいらっしゃいましたが、枕元に円筒の鉛筆立に沢山の手裏剣を置いておられる。いつも鉄扇を携えてらして、お元気な時代に大東流柔術の講演をした折、柔道家五人が合気をかけてみてくれと詰め寄ってきたことがあった、「よし、それなら」と吉田先生が腰の鉄扇を抜いたら、黙ってしまったそうです。(笑)
先生の時代は、武道家同士が腕試しをしあった時代ですから、先生は試される側だったわけです。相撲取りが合気柔術とはどうゆうものか知りたいと訪ねてきたこともあって、その時、「それじゃあ」と手元の手裏剣をパーッと庭の柿木に向かって投げたそうですよ、相手は黙って帰っていったそうです。(笑)

-どんな稽古を?

地曳 合気の技の稽古は細野先生に充分教えていただいており、後は自分自身の研究という時期でしたから、吉田先生から大東流の考え方や武士の発想法を学びました。先生は、武田惣角が武者修行の旅に出たとき、補佐役として随行した方です。惣角の話を伺うことが、楽しみでした。

銅銭投げと惣角

-その話をお聞かせ下さい。

地曳 浜松に立ち寄ったときのこと、惣角は松の木に向かって二銭銅貨を投げている男性に行き合った。二銭銅貨という今の五百円玉位の大きさです、それがことごとく松の木に食い込んでいく。惣角は手裏剣をやる人ですから、それに感心して「入門させてくれ」と申し出たそうです。ところが、その男性のいうには、以前小児麻痺を患い動けなくなったことがある、その時、彼の兄がこれでは運動不足になるからと心配して一円を全部二銭銅貨に替えて、運動のために柱に向かって投げろと渡したそうです。初めは当たるだけで跳ね返っていたが、そのうち食い込むようになったという。
運動代りにやっていることだから、人に教える事ではないと断ったそうです。この話に惣角はいたく感じ入り、手裏剣の鍛練に熱を入れだしたということです。

老婆の串投げと泥棒猫

地曳 手裏剣の話には、まだ続きがあります。四国へ向かう旅の途中、舟の渡し場の茶屋で惣角が一休みした時の話です。この茶屋では鰻の蒲焼きが名物で、洗い場で老婆がその竹串を洗っていた。洗い終えると一本一本、振り返らずにホイと後ろに投げる。それが後ろの竹籠に見てもいないのに竹串が端から並ぶのだそうですよ。

-エーッ、本当ですか?

地曳 惣角はそれに感心して、袖の下や肩越しに後ろに手裏剣を投げる練習を始めたそうです。武者修行の旅ですから、教えながらも自分の鍛練を怠らなかったのですね。やがて、惣角一行は四国土佐にやってきた。惣角は、鰹のたたきをご馳走してやると鰹を買ってきて三枚に下ろし始めた。下ろした切り身を脇の皿に並べると、泥棒猫がそおっと寄ってきて切り身をくわえて走った。惣角は、すかさず出刃包丁を袖下から後ろに投げたそうですよ。ギャッと一声、命中した。その時惣角は、「無礼者っ」といったそうです。(笑)

武士の北海道開拓

-吉田先生は、惣角に植芝盛平氏を紹介した方とうかがっておりますが…

地曳 植芝氏は惣角に合気柔術を学んだ人ですが、先生は氏の保証人でした。植芝氏は腕力のある人で、朴歯下駄を履いた惣角を両の掌に乗せて持ち上げたそうです。開墾に従事していたから、鍛えられていたんですね。それに、開拓団の大部分はもと武士だった。植芝氏も武家の出でした。幕末に幕府についた武士達が、維新後、行き場を求めて開拓団に身を投じたのです。初期の開拓団は武士ばかりですから、朝の点呼なんかは居並ぶ者に向かって「各々方、一歩前に出ませい」とか「只今より出立いたす、御支度召されい」とか言っていたわけですよ。(笑)

-つまり、北海道には武道の環境が充分あったのですね。

地曳 そうですね。惣角は網走を拠点にして、北海道各地で教えて廻った。その中で、北海道新聞の編集長でおられた吉田先生と出会われたのでしょう。取材されたのかも知れません。先生も武家の出で、会津近くにある三春藩の藩士だったそうです。惣角は会津藩でしょ、縁があったのですね。

武士の発想を知る

地曳 惣角は、いつもカランコロンと朴歯の音をさせて先生の所にやってきた。玄関先で会津訛りで「吉田君、おるか?」呼ぶのだそうです。(笑)冬のあるとき、惣角のために風呂を沸かした。風呂の戸が少し開いていて、冷えてはいけないと閉めると、惣角は狂ったように怒り出した。「戸を閉めては、敵が来ても分からないではないか。これは、命の危険に陥れるお前の謀略かっ」と言うのです。これには、吉田先生も面食らってしまった。つまり、惣角はいかなる場合にあっても臨戦体勢にあったのですね。外に出れば七人の敵あり、なのです。

-まるで戦国武士ですね!

地曳 おもしろい話であると同時に、とても参考になりました。なるほど、武士はこういった発想をするのかと。細野道場でも、武士の立ち居振る舞いについては、繰り返し教えられたものです。仕込刀があるから畳の縁を踏むなとか、襖をガラッと開けてはいけないとか。「畳返し」の訓練もしました。矢の盾にするために、親指を縁にいれて畳を立てるのです。武士は登城すると一日中座っている。しかし、決して胡座をかきません。足の親指を重ねずに正座するのです。こうすれば、いざというとき親指を立ててすぐ立ち上がれる。または、「折敷」という左膝を立てた座り方をする。これは、鎧を来たときの座り方です。細野道場で習ったことを、吉田先生の所で更に深めることになりました。惣角の武者修行の話、特に道場破りの話はすごく参考になりました。

-どんな話ですか?

地曳 道場破りに行くと、道場主は最初から出てこない。下のものから次々とかかっていくわけです。その間、道場主は物陰から惣角の腕を見極めているのです。その時は、秘中の技は使わず片手で相手をさばいて技を隠すのです。師範代も破れると、いよいよ道場主が対戦する。その時、秘中の秘であるツキ一本で相手を倒す。惣角はツキで開眼した人らしいです。勝つと奥に通され、「これで一つ看板は…」と金一封が出て酒席が用意される。しかし、その膳には手を出してはいけない。毒が入っているのです。油断もスキもあっもんじゃない。(笑)

-武器法も多彩ですか?

地曳 もともと剣術から発達した武術です。この技は大東流合気柔術の中でもとても重要なものなのですが、「引き落とし」を見るとその片鱗がわかる。振り込まれた太刀を滑らせてかわし、太刀を返して相手の頸動脈を切る技「行き違い」を基本にして身のさばき方ができている。握ることなく手を添えるだけで、相手の勢いを利用するのが「引き落とし」です。武器法も、大刀・小刀・手裏剣・鎖鎌・鎖分銅・半弓など多彩です。

更なる護身術を求めて

地曳 私は、いつも最高の「護身」を求めて来ました。合気武道を習得したいから習ったのではなく、優秀な護身術であるから修業に熱中したのです。武器を手にしたら如何にするかと杖道を習い、瞬間の接触に有効な技であるから太極拳を習った。とにかく、いい先生がいると聞くと、どこであろうとも習いに行ってしまう。(笑)

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