第2回 武家の子供の作法と戦争時代
地曳秀峰名誉会長は初めから柔拳に出会われた訳ではありません。
その出会いの軌跡を追ってみましょう。
―前回の記事を読まれて武家の子供の躾(しつけ)について質問された方がいましたので、本題にはいる前にそれについて地曳秀峰先生にお伺いしました。
地曳 武家の子供は赤ん坊の時から腹ばいにさせて自分で起き上がるようにして手足を強くさせたり、又、幼少の頃から刀に馴じませたりしました。武士は刀を使うことが使命なので、子供のうちから小さな刀を腰にさしていたんですね。明治維新の頃の写真で、子守りの背中におぶさっている赤ん坊が小さな刀をさしているのを見た事がありますよ。刀というのは重いですから、腰の骨にとても負担がかかります。それを二本もさして歩くので腰骨の上にタコができる。そして左肩が上がった姿勢になり、武士は遠くから見てもわかったそうです。赤ん坊の時からそうやっているため自然に身体がそういう形になってしまうんですね。
―心身共に頑健になるように育てたのでしょうね。
地曳 そうですね。武家というのは精神的にも強かったと思いますね。生死をいつでも考えていなければなりませんから。外に出れば、七人の敵がいると言われ、その備えをして外に出るわけです。例えば、昔はよく畳のへりを踏むなと言われました。
― なぜでしょうか?
地曳 畳のへりに刃物を隠してある場合がある。踏んだ時にそれが飛び出す仕掛けです。
―小笠原(おがさわら)流作法で畳のへりを踏まないというのは、そこから……
地曳 そこから来ているのですね。また、襖を間ける時も、一気には開けない。間けた瞬間に槍でつかれる恐れがある。体を引いて二段に開けるのです。飛び道具に対する構えが、そのまま作法になっているわけです。
―お茶の作法もそういう意味が含まれているのですね。
地曳 今はその理由がわからなくなっているものも、本当の理由はそういうことなんですね。例えばお辞儀も後頭部を見せない。上目使いで見ないと、回りから誰かがサッと来るかもしれないですから。
―きびしい!(笑)
地曳 生死の境に生きてますからね。藩主に死ねと言われたら死ななければならない。それで禄高(ろくだか)をもらっているのですから。またその格式に合わせて、調度品・使用人をそろえなくてはならないわけです。
―格式というのは大変ですね。
地曳 格式というのは地位を表すものですから昔の方違は大変重んじていたんですね。
千人針の街角
1937年、丈尚(たけひさ-地曳秀峰名誉会長の幼名)10歳の時、慮溝橋(ろこうきょう)事件が勃発。日本は戦争へとひた走る時代になって行く。そして太平洋戦争が始まったのが1941年、丈尚14歳の時だった。
地曳 そのころから日本は戦争に入って行く時代になりました。世の中が不安定になって来て、物資が欠乏して来ましてね。
―忠君愛国(ちゅうくんあいこく)の真只中ですね。
地曳 そうです。国の為に尽くすというのが男の本分(ほんぶん)というか。私もそう考えていました。だから例えば、私が海軍に入って出征(しゅっせい)前に木更津の本家へ挨拶に行った時のことですが叔父が「死ぬなよ」と言ってくれたんですね。でもその時、「なんと女々(めめ)しい人だろう」とそう思った。「とんでもない。それこそ死ぬのは大喜びだ、男にとっての花だ」とそう思ったのを覚えていますね。だから今考えるとずい分時代が変わったなと思いますね。
―時代の雰囲気だったのでしょうか。
地曳 ええ。男は皆んな志願して出征しなければならなかった。友達もずい分、特攻隊に志願し飛び立っていきましたね。他にも小学校の高学年ぐらいから、戦地の兵士に送る慰問袋(いもんぶくろ)を作ったり…。それから晒の布をもって街角に立って千人から糸の結びを作ってもらう千人針。その布を腹に巻いていれば千人の力で弾が当たらないという意味がありましてね(笑)。私はそのころ下町に住んでいたので、上野の松坂屋の角で沢山見ました。
真珠湾攻撃の後、日本は物資が統制下におかれ時代は戦争一色となる。