第5回 八光流-親指一本で動けない?
空手を修業して十年の歳月が流れたが、ひょんなことから自らの空手に弱点を見いだした地曳秀峰。それを気づかせたのは、意外にも酔って暴れ出した友人だったのである。
巡り来る転機
―先回のインタビューで空手に疑問を抱くようになったとお聞きしましたが…。
地曳 それまでの十年余り、合理的かつ実際的な護身術だと信じて空手の修練を一心に積んでいました。それが、目の前の酔った友人さえ納めることができなかった。空手は突き蹴りが主なので押え技が無い。これでは、いざというときの護身術としては不十分だと思い始めました。
- それが、地曳名誉会長にとっての大きな転機となられたのですね?
地曳 そういうことです。27歳くらいの頃でしたか…。
親指一本で動けない?
― その後、如何なされましたか?
地曳 とにかく探し始めましたね。といっても、今のような武道関係雑誌なんて無い時代です。どこに行ったらいいのか見当さえつかない。ある日、浅草の観音様で因縁としかいいようのないことに行き当たりまして…。
― 浅草寺のことでしょうか?
地曳 そうです。子供時代は下谷で育ちましたので、よく遊びに行ったものです。
― 名誉会長にとって所縁の地というわけですね。
地曳 そのとき、境内で一人の易者に出会いましてね。その経緯は忘れましたが、その人の名刺に「柔術師範」と肩書きがあった。当時は柔道全盛、誰もが「姿三四郎」に憧れた時代です。小説の中では、柔術は新しい武道・柔道に淘汰される存在でしかなかったですから、なんて古めかしいと思いましたよ。ところが、その人は柔術は親指一本で相手を動けなくできるというのですよ。
― エッ!親指1本ですか?
地曳 私も「そんな馬鹿な!」と思いましたね。「私は空手をやるのだが、ちょっとその技をかけていただけないか」と頼みますと、「それなら、私の先生を紹介しよう」と、名刺の裏に紹介状を書いてくださった。
我が空手破れる
地曳 親指一本で動けなくなるなんて誇大宣伝じやないかと調べるつもりで、大宮のその先生を訪ねました。入り口で先日の紹介状を出し来意を告げると、道場に通されましてね。畳敷きで、八畳位だったかな、天井も低く古めかしい所でした。やがて、先生がいらして…。
― 何という方ですか
地曳 八光流(はっこうりゅう)の奥山龍峰(おくやまりゅうほう)先生です。「空手をやるそうだが、おもいっきり突いてごらんなさい」といわれ、「じやあ、突きます」とバーッと突いた瞬間、何があったのかわからない。目の前が真暗になり、目から火花が出たという感じで、痛い痛い…見事に投げ飛ばされました(笑)。後でわかったことですが、「小手返し」をかけられた。現在、私は大東流(だいとうりゅう)を指導していますが、奥山先生は大東流の天才武術家・武田惣角(たけだそうかく)の弟子だった方です。その場で入門しましたね(笑)。
畳まれた柔道家
―どんな先生でしたか?
地曳 中肉中背の丸顔の方で髭を生やしておられた。その頃五十前後でしたかねえ。私の結婚式にも来て下さった。もう亡くなられて、現在では御子息が継いでおられますがね。指圧術に長けてらして、大東流にそれを取り入れ、分派として八光流を起こされた。大衆雑誌に宣伝を載せ派手に活動されてましたね。
― 多くの弟子がおられたのですか?
地曳 どの位だったでしょうかねえ…。本当の弟子は少なかったと思いますが、狭い道場の中の宿泊施設に全国から集まってきていましてね、それで速成で師範にしてしまう。
― 速成で、ですか?
地曳 無理ですよねえ。それに通信教育のような形で指導もする。ちょっとそれが不信感につながりましたが、すごいと思ったこともありました。栃木の温泉での講習会でのことでしたが、参加者は武道の玄人ばかり。突然、先生が講義している最中に柔道七段の大男が掴みかかった。前の晩の酒が利いたんでしょうかね(笑)。先生の紋服の襟と袖を捕って投げようとしたが、先生が彼の前腕を掴むと男は動けなくなった。その後が大変、提灯を畳むようにその男をクシャクシャッと畳んでしまった。彼が「助けてくれ!」と悲鳴を上げたので先生はようやく放し、ハッハッハッと大笑。そのとき実に感心したのは、息も乱れないのは勿論のこと、片手に扇子を持ったままだったのです。それからは私も益々練習にのめり込みましたね。
地曳秀峰の柔術修業はこの時始まった。やがて後に、武田惣角の高弟である細野恒次郎(ほそのつねじろう)・吉田幸太郎(よしだこうたろう)両先生との出会いへと発展していくことになる。