地曳秀峰老師インタビュー 柔拳への道

第11回 40年前、太極拳に出逢った頃

これまで、幼少期より、地曳秀峰会長の武道歴をお話して頂いてきました。

今回は王樹金老師と出逢った40年前の社会的環境や、王樹金老師の来日にまつわる話題を中心に、会長の武道生活をお話頂きました。この当時、中国武術の名人・王樹金老師の来日は、日本武道界を震憾させたセンセーショナルな出来事でした。

地曳会長は新聞誌上で老師の記事を見つけ、記事にあった寄宿先である神道夢想流杖道師範・清水隆次師宅を訪ねて行き、老師に会えるやその場で指導の許可を頂くことができました。

老師来日の反響

-40年前、老師の来日は一般的に、どのような受け止められ方をしていたのでしょうか?

地曳 そうですね。老師を招聘された全日本杖道連盟(じょうどう)会長の頭山泉(とうやまいずみ)先生のご父君は、戦前の政財界に大きな影響を与えた、いわゆる名士でしたからね。この頃は、終戦後15年ほどでようやく戦後の復興ができた頃です。ご父君、頭山満(とうやまみつる)の名前は、まだ、影響力が残っていたと思いますね。そのご子息が中国の文化使節として老師を招聘したということが、当時のマスコミをかなり動かしたように思われますね。

-当時は、まだ、武道が盛んな時代であったと聞いておりますが・・・

地曳 武道が盛んだった戦前の風潮が残っておりましたからね。でも、一方では武道がやり難い時期もあったわけです。 GHQ (日本占領下の連合軍総指令部)の指導で、学校で武道を教えられなくなったでしょ、町道場も一時閉鎖されましたから。私は戦争直後あたりは、空手をやっておりまして(松濤館流空手(しょうとうかんりゅう)・船越義珍師(ふなこしぎちん)に師事)、練習する道場がなくて警察の道場でしたが、借りてやったものです。当時は、柔道は盛んで未だ空手が珍しい時代だった、練習していると警察の人々が珍しがって見学に来たものですよ(笑)。武道に対する好奇心が強かった時代と言えるでしょう。それに比べると、今は様変わりした感じですね・・・

-それでは、老師来日の新聞記事はかなり興味が集まったのでしょうか?

地曳 反応は高かったでしょう。中国文化を日本に紹介する文化使節が「中国武術の達人」だというのは、とにかく異色でした。中国文化といったら墨絵とか陶器とかが普通なのに武道が紹介されたわけです。これはとてもインパクトが強かった。中国側が日本の国民性を考えた結果だと思いますが、日本人は武道に対する造詣が深いというのが、国際的な印象だった時代です。「我が国の武術の質の高さを見せたい」という中国の意向が強かったのではないでしょうか。そのうえ、招聘要請を出された頭山泉先生が古武道振興に大変寄与されていた方ですから、両者の意向が相まって、本格的な人間国宝クラスの武道家である王樹金老師の来日を実現させたと言えるでしょう。しかし、どんな武道であるのか、想像もつかないわけです。それでも、『達人来る』の記事を見て「どうしても会ってみたい」と思ったのが、若い私の情熱だったのです。

(笑) 注:1960年頃は、日本と中華人民共和国との国交が結ばれていなかった。
当時、中国というと国交のあった台湾の中華民国をいうのが一般的であった。それゆえ、日中の文化交流というと、日本と中華民国との文化交流を指した。

護身術の真髄を求めて

-人知を超えた名人から学ぶということは非常に難しいと思われますが・・・

地曳 あの頃の私は、もっと素晴らしい護身術の手(抜)があるのではないか・・・と、常に探し求めておりました。それも武器を持たない護身術です。武器を持つからこそ有利であるのはわかりやすいことだが、私は素手の状態で身を守れる武道を求めていたのです。空手を最初に選んだのも、その理由からです。突き蹴りの速さと合理性は、他の武道に優ると考えていたわけです。ところが、以前にもお話致しましたが、酒乱の傾向がある職場の 知人が暴れ出したのを、空手ではさばききれなかった、知人ですから空手の「突き蹴り」を入れるわけにはいきません。そこで、このような状況の時押さえ込めるような技はないかと探し求めて、ひょんなことから柔術に出逢うことになりました。空手で対戦してみたわけですが、わけもなく柔術に負けてしまい、愕然としたわけですね(笑)。それから、柔術を始めたというのが、あの頃の私でした。

注:八光流合気柔術の奥山龍峰師に入門した後、大東流合気武道の中興の祖・武田惣角の高弟、細野恒次郎師の門下に入門した。

地曳 柔術は「力の抜く」事を要点として行う気の武道ですが、未だ気の世界には素人だった頃ですから、空手の習慣から来る力への信仰みたいなものから抜け切れなくて、柔術が実際にボクサーなどを相手にした場合有効なのかどうか疑問を持っていた時代です。まだ、他にあるのではないのか、と常に考えている時にあの記事に出逢ったのです。中国武術と聞いて、なんとなく神秘的なイメージを持ったものです。

注:細野道場の師範代になられて後に地曳会長は、木更津の米軍基地において、全米海軍ライト級ボクシングのチャンピオンと対戦し、難無く勝たれ、この対戦者は会長の合気武道に傾倒して師事するようになったという経験をお持ちである。

 

「太極拳」という言葉さえ誰も知らない

-当時は、太極拳といっても知られてなかったのですね。

地曳 そうなのです。今でこそ太極拳は世界的に知られていますが、当時の日本では、全く知られていなかった。第一、「○○拳」という呼び名さえなかった。「拳」というと、連想されるのは料亭などで遊ばれていたお座敷芸しか浮かばなかった。狐が出てきてそれを猟師が鉄砲で撃って…という、あれですよ(笑)。ジャンケンみたいなものですね。

-拳法の認識がなかったのでしょうか。でも、空手も拳法ではないですか?

地曳 空手でも「拳」という表現はなかったですね。あったのは、「手」という表現です。つまり、「あの人はいい手を使う」という時の「手」、つまり「手段」の事です。「こういう手があるぞ」の「手」ですよ。空手は、もとは『唐手(からて)』と呼ばれていたのですが、昔は「唐」とは異国の総称でしたから、「異国の手段」というような意味だったのです。後になって船越義珍先生が「武器を持たない空の手」ということで当て字をされたのです。私は船越先生に師事しておりましたが、先生はもとは沖縄の中学校の校長をされていた方で、教養のあった方でしたからね。

-地曳先生は、空手をやっていたから、王樹金老師の拳法に興味をもたれたのでしようか?

地曳 もっと「いい手」はないかと常に思っていたからですよ。まだ、合気武道がそれほど身についていない時代だったですから、空手の習慣がまだ残っておりました。この技で空手の突き蹴りのスピードに対抗できるのだろうか、ましてやボクシングの目にも止まらぬパンチを、はたして受け止めることができるのだろうか…、何かもっと「いい手」があるのではないかと常に頭にありましたから。体が大きく力の強い者に襲われても、もっと効率良くさばける合理的な「手」があるはずだ…と考えていました。細野道場でも、バアーッと来られた時にとっさに出る技は、まだ空手だったです。空手で一気に受け止めて、最後だけ逆手をきめて押さえ込むという感じだったのですね(笑)。

-武道が面白くてたまらない

地曳 あの頃の細野道場は、とても面白かった。細野道場では柔道も教えていたのですが、その連中も合気を練習に来ます。がっちりとした彼等を相手に、こんなふうに技をかけたらどうか、こういう感じでつかみ掛かられたらどうするかと研究できた。
あの手この手を考えるわけですよ。後になってから、やはり、「基本が大事だ」と初心に帰るのですけれど…(笑)
また、講談か何かである名人が「こんな手を使った」という下りを聞くと、「確かにそんな技もあるはずだ」などと思ったりするわけです(笑)

-武道に燃えていらした時代ですね。

地曳 それに周りに集まってくるのは、武道好きな連中ばっかりです。「武道ができれば、お金もなんにもいらない」という者ばかりです。仕事さえ、ついでにやっているようなもので、生活があるから仕方なくやっているといった感じです(笑)。道場で練習に熱中した後、それでも終わらなくて飲みに行き、今度は武道談義です。これが楽しくてしかたない、何時まで経っても帰れない…(笑)。私は仕事が木更津だったから、次の土日まで東京に来られなかったので、この時間が名残惜しくてたまらなかった。木更津に帰れば、東京に行くのが待ちどうしくてたまらない。木更津では、仕事が終わると一人で一生懸命練習して過ごしたものでした。

第12回へ続く。

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